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早期発見は発見していない

自明のことだが、誰しもが認知症になる可能性がある。
それでも、できるなら認知症になりたくない。どんな人でも、そう願っている。
だから、巷では「認知症予防」が耳目を集める。

予防に加えてもう一つ、よくスローガンとされるのが「早期発見・早期診断」というものだ。
後者の「早期診断」については、鑑別診断などの医療技術の質が向上するとともに、それを担う医療機関の量(数)が増えている現状からすると望ましい。そこに異論はない。

一方、前者の「早期発見」。この言葉にはすごく違和感がある。
アミロイドPETなどによって、アミロイドたんぱくの溜まり具合を可視化できるようになったとはいえ、それはあくまでも「いずれ認知症になるかもしれない」くらいの“発見”でしかない。

最初の異変や兆候に気がつくのは誰だろう。
これは、明らかに本人である。家族でも専門職でも職場の同僚でもない。
その意味で、本人がもっとも早く「気づく」のであり、「自覚する」のである(事態を正確に把握するのは困難だとしても)。

このことから、本来、早期の後に続く言葉は、「気づき」「自覚」(あるいは「病識」)でなければならない。
「発見」という日本語は他者が主語であるため、自分で自分の病気を発見するとは言わないのだ。

表現にそれほどこだわらなくてもいいと言われそうだが、僕はこれを大問題だと思う。
「早期気づき」や「早期自覚」という言葉が使われず、他者による「早期発見」ばかりが叫ばれるのは、認知症の人をバカにしていることに他ならないからだ。
認知症になると、気づけない、表現できないという誤解と偏見がそこに根を張っている。

「早期発見」という言葉をなくせとまでは言わないけれども、「早期気づき」「早期自覚」のほうが大事である。
本人の気づき・自覚に重きを置かなければいけない時代は、もうとっくに来ていると思うのだが。

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